中学生の弁論大会のテーマと書き方

※これはフィクションです。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------

[読書のすすめ]

まずはこれを読んで欲しい。絶対面白い。

 

------------------------------------------------------------------------------------------------------------
中学生に「弁論大会があるが、何について書けばいいか」と聞かれた。
「声高らかに『萌え』について語ってみてはどうか」と提案したが、すげなく却下されてしまった。

それでは面目が立たないので、弁論大会について語れるようになってやろうと、図書館で蔵書検索したが、「弁論大会」「弁論」ではろくな資料が引っかからない。

ちなみに「スピーチ」ではわりと引っかかるが、プレゼンや結婚式のスピーチについての書籍が多い。

つまり、求められているものと、若干違うのである。

 

ということで、結局ネットに頼ることにした。


検索に引っかかったのは、向日市の中学生弁論大会の弁論内容
これを読みなるほど弁論大会というのはこういうものが求められるのだなぁと薄らぼんやりと理解した。


それを元に、以下に私が学んだことを述べることにする。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------

人に物事を伝えるときに重要なポイントとして、良く使われる言葉に、5W1Hというのがある。

「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)」だ。

Wikipediaによれば、「Whom(誰に) How much(いくらで or どれだけ)の2つを付け加えて、『6W2H』」というのもある。


日本語では「六何(ろっか)の原則」ともいうらしい。
「何時(いつ), 何処(どこ)で, 何人(なんびと)が, 何を, 何故に, 如何(いか)にして」と、「何」が6つあるからだという。
ひとつ賢くなった。


話は逸れたが、中学生の弁論大会というのは、

いつ(When):大会の日に
どこで(Where):大会の会場で
だれが(Who):中学生が
なにを(What):意見など(あらかじめ作成した論文)を
なぜ(Why):
主に教育といったお題目の下で強制される為、あるいは内申点の為に、
(稀に、本当に訴えたいことがある人もいるかもしれないが、内輪の弁論大会で主張したところで、その意見が採用されることはあまり望めない)
だれに(Whom):大きく言えば、教師や親といった大人、社会、あるいは同世代に対して/その場の聴衆としては、審査委員的な人たちに向けて
どのように(How):
大勢の前で、大げさな身振り手振りと抑揚をつけつつ大真面目に述べる(短時間のスピーチをする)


というものであるようだ。

「いくらで(How much)」は、たいてい無償であるが、なんらかの特典がある場合もある。
内申点、というのも褒賞のひとつか。

 



で、ここで問題となるのが、「何を」の部分である。
意見などの中身が「論文のテーマ」で、その形式が「論文の書き方」だ。

・・・

何を書くか。
とりあえずテーマを決める必要がある。

しかも、何かしらの「意見」「主張」「疑問(問題提起)」「決意」といった、「自分が考えたり感じたこと」を入れなければならない。

大衆を面前にして真剣にそのようなことを述べるというのは、思春期には大変恥ずかしいと思う。
公開処刑の挙句に黒歴史化などといった事態は、避けたいものである。

クラスのモブキャラとしては、「普通」で「常識的」なテーマが、一番目立たなくていい。

そして、評価するのは大人――教師などの教育者や、どっかのお偉いさん――なので、それなりに彼らが気に入るようなところに落とし込む必要がある。
つまり、「求められる中学生像」を思い描いた上で、それに沿うか、あえてそれからちょいと「(彼らが望む方向へ)大人びた」ような意見を書かねば、と。


ということで、義務としてこなすなら、無難で無害なものを、評価を得るには、驚きや感動を(「大人」に)もたらすテーマを選ばなければならない。

「こんなこと言っちゃう俺ってカッコいいぜ」的な痛々しいものを書き上げ、2年にいっぺんくらい夜中に枕に顔をうずめてジタバタしたくなる経験は、人生の醍醐味とも言えなくもなくない。

 



私なら、およそ凡庸なテーマについて、取ってつけたようなありきたりな意見を、時間だけはかかるくせに稚拙な文章で、しかも何かが微妙にずれたKY感漂うものを書いてしまうだろう。
教室での発表も赤面してしどろもどろで、発表が終わると教師から感想も言われずに、「じゃあ次、山田さん(仮)」なんて流されるところが目に見えるようだ。


ここまで書いておいて何だが、弁論大会なんてものが身近で開催されたことがないので、あくまで想像である。


件の中学生に嗤われる為にだけ書いているので、問題なかろう。
どうでもいいが、「件の」と書くと、ちょっと年寄りじみてて味わいがあると思う。
手書きだと「くだんの」と書こうとして、「件」というのが思い出せずに煩悶しそうだ。
「嗤われる」は、「嘲笑われる」に「わら」とルビを振るのとどっちがいいか迷う。
検索したら「嘲笑われる」は「あざわらわれる」と読むというが馴染みがない。
あざわわれる、ではない。もうちょっとわらわらしている。
同じ漢字を使うなら「ちょうしょうされる」方が普通だ。うん。


「JCに嗤われるなんてご褒美です(キリッ」と紳士を装い、ドン引きされる。
ホメラレモセズ クニモサレル サウイフモノニ ワタシハナリタイ

 

 

 

・・・

閑話休題

テーマを考えるにあたっては、「発端となる何か」があった方がわかりやすい。

・なにかしらの「きっかけ・できごと」があって《考え始めた》《考えさせられた》、あるいは《感じた》=《感動した》《悲しんだ》《驚いた》etc
 →どんな「きっかけ・できごと」か
・「きっかけ・できごと」のような通過した「点」ではなく、既に存在ている、いわば「線」のような、「状態」や「状況」、「感覚」、「思考」があって、それについて常々《考えている》《感じている》
 →この場合、弁論大会が契機となり、《改めて認識した》《改めて考えた》であろうか


また、弁論大会なので、「結びとなる何か」が必要である。
上記の《》内の何かから導き出された、
・決意
 →○○する(行動する)、○○していく、○○したい
・主張・意見
 →○○する()、○○すべきである
・提言
 →○○すべきではないだろうか
・願い
 →○○してほしい
というようなヤツだ。
感想文ではないので「○○でした。おわり」ではダメで、こういうものが必要となる。

「願い」の亜種には、
 →○○しろ(威圧、→○○しろ下さい(依頼、→○○して下さい死んでしまいます(懇願
などがあるが、この辺はやんわりと「してほしい」でまとめるのがよいだろう。

弁護人による弁論も、
「このキャラクターは1012歳であり、ロリではなく合法ロリである。従って被告は無実だと主張する。」といった感じで結ぶのだろうと思う。たぶん。

 

上記の中で、一番主体的なのが、「○○する(行動する)」という実行宣言である。
「○○していく(行動の継続)」というのも宣言だと思うが、今までもしてきたことを続けるだけなので、インパクトに欠ける。

ただ、「○○する」の形の中には、「今後も考えていきます(考えるだけ)」「主張していきます(言い張るだけ)」「前向きに検討します(形式上議題に入れるだけ)」「善処します(何もしない)」「明日から本気出す」のような空疎なものもあり、語尾だけでくくるのには無理があるので、この辺で混乱し始めて「○○する()」と濁してあるのはご愛嬌ということで。
駄文である。

「○○する(行動する)」に対し、「○○したい」になると、「したい(とは思ってる)」という願望や、「したい(けどできないかも)」という言い訳が見え隠れする。

「○○すべきである」になると、かなり上から目線をだが、他者に「なるほど、私もそうすべきだ」と納得させた上で、さらに実際に行動を起こさせることができるのならば、それはかけがえのない資質と才能があると言える。
いずれ愚民たちを扇動し、兵士たちを鼓舞し、素晴らしい独裁者となれるであろう。

ちょっと話が逸れるが、演説などの方法で、強い論調を用いて人を煽り動かすことをアジテーション(アジ)という。

教養のひとつとして、下に有名なアジテーションを引用しておく。

長文だが、こんな文章を読むような人なら誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。

諸君 私は戦争が好きだ 

諸君 私は戦争が好きだ 

諸君 私は戦争が大好きだ 

 

殲滅戦が好きだ 

電撃戦が好きだ 

打撃戦が好きだ 

防衛戦が好きだ 

包囲戦が好きだ 

突破戦が好きだ 

退却戦が好きだ 

掃討戦が好きだ 

撤退戦が好きだ 

 

平原で 街道で 

塹壕で 草原で 

凍土で 砂漠で 

海上で 空中で 

泥中で 湿原で 

 

この地上で行われるありとあらゆる戦争行動が大好きだ 

 

戦列をならべた砲兵の一斉発射が轟音と共に敵陣を吹き飛ばすのが好きだ 

空中高く放り上げられた敵兵が効力射でばらばらになった時など心がおどる

 

戦車兵の操るティーゲルの88mmが敵戦車を撃破するのが好きだ 

悲鳴を上げて燃えさかる戦車から飛び出してきた敵兵をMGでなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった 

 

銃剣先をそろえた歩兵の横隊が敵の戦列を蹂躙するのが好きだ 

恐慌状態の新兵が既に息絶えた敵兵を何度も何度も刺突している様など感動すら覚える 

 

敗北主義の逃亡兵達を街灯上に吊るし上げていく様などはもうたまらない 

泣き叫ぶ慮兵達が私の振り下ろした手の平とともに金切り声を上げるシュマイザーにばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ 

 

哀れな抵抗者達が雑多な小火器で健気にも立ち上がってきたのを80cm列車砲(ドーラ)の4.8t榴爆弾が都市区画ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える

 

露助機甲師団に滅茶苦茶にされるのが好きだ 

必死に守るはずだった村々が蹂躙され女子供が犯され殺されていく様はとてもとても悲しいものだ 

 

英米の物量に押し潰されて殲滅されるのが好きだ 

英米攻撃機(ヤーボ)に追いまわされ害虫の様に地べたを這い回るのは屈辱の極みだ 

 

 

諸君 私は戦争を地獄の様な戦争を望んでいる 

諸君 私に付き従う大隊戦友諸君 

君達は一体何を望んでいる? 

更なる戦争を望むか? 

情け容赦のない糞の様な戦争を望むか? 

鉄風雷火の限りを尽くし三千世界の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか? 

 

『戦争! 戦争! 戦争!』 

 

よろしい ならば戦争だ 

我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ 

だがこの暗い闇の底で半世紀もの間堪え続けてきた我々にただの戦争ではもはや足りない!! 

大戦争を!! 

一心不乱の大戦争を!! 

 

我らはわずかに一個大隊 千人に満たぬ敗残兵に過ぎない 

だが諸君は一騎当千の古強者だと私は信仰している 

ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の軍集団となる 

我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている連中を叩き起こそう 

髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう 

連中に恐怖の味を思い出させてやる 

連中に我々の軍靴の音を思い出させてやる 

天と地のはざまには奴らの哲学では思いもよらない事があることを思い出させてやる 一千人の吸血鬼の戦闘団(カンプグルッペ)

世界を燃やし尽くしてやる 

全フラッペン 発動開始 旗艦デクス・ウキス・マキーネ 始動 

離床!! 全ワイヤー 全索引線 解除 

「最後の大隊 大隊指揮官より 全空中艦隊へ」 

 

目標 英国本土 ロンドン首都上空!! 

 

第二次ゼーレヴェー(あしか)作戦 状況を開始せよ 

征くぞ 諸君 

HELLSING より)  

 

歴史に残る強烈なアジテーションである。
似た言葉に「プロパガンダ」(政治的意図をもって主義・思想を広める宣伝活動)があるが、これの適切な使用方法については、下のリンクを参照されたい。
完璧で幸福なクトゥルフ神話1-1【パラノイアTRPG】


 

「○○すべきではないだろうか」は、「○○すべきである」よりやわらかい表現で、人に提言する・呼びかけるという感じになる。
いやむしろ、「問いかけられると、つい答えを考えちゃう」という人の習性を利用した思考の強制と考えれば、あざといやり方だとも思える。

「○○してほしい」になると、ただのお願いになり、ぐっと「上から感」が下がる。
美少女から熱っぽく「してほしい」と語りかけられたら、「してやってもいいかな」と思ったりもするだろう。
幼女からは「しなちゃい」と命令形の方がいとをかし。

それにしても、長ずるに従い「○○してほしい(妄想)」が増えるのはどうしてか。

叶えてくれる人がいなくなるからか、理想と現実が乖離してくるからか。


・・・

ということで、テーマを考えるにあたっては、
1.「何かがあって」、
2.「それによってアレコレ感じたり考えたりして」、
3.「その結論として、こう思った、こう考えた」
というような3点を見出せるものでなければならない事を先に頭に入れておいて頂きたい。

1.については上に述べたとおり、a.「きっかけ・できごと」を書けばよい。
 起承転結で言えば「起」である。(承の後に転ずるかどうかは自由)
 事件的なものがない場合は、b.「既に存在しているナニか」の存在を前提条件として挙げる。

例)

a.去年の秋に「絶対領域」という言葉を知った。
b.女子高生は校則で膝下丈のスカートにハイソックスや三つ折ソックスを指定されていることが多い。

2.では、「1-a」からのa.経過を述べていく。起承転結の「承」である。
  もしくは「1-b」を前提として、「3(結論)」を導くb.理由・根拠の部分を述べていく。

例)

a.その後ニーソックスがやたらと目につくようになり、それに魅了されていった。

  あれは美しいものである。私はニーソの女学生が好きだ。

b.しかし足捌きの観点から、スカート丈は長いより、短いほうが取り回しがよい。
  そして保温性の観点からは足を個別に包み込むものの方がよい。

 注意点としては、2-aであれば感じたこと・考えたことを書いていけばよいが(上のアジの引用では、どこで、どのように行われる戦争が、どんなに好きかが具体的かつ繰り返し述べられており、聞き手にわかりやすい)、2-bの場合には、複数の根拠をあげて理論を強化してくことや、「想定される反論と、それに対する更なる反論」を意識しすることが必要である。

例)

・布を垂らしただけのスカートは風が通るので、スカートによる保温よりもソックスによる保温がよい。
・タイツの方が保温性が良いとの反論もあると思うが、タイツは伝線によって破損しやすい。
 まとめ買いしておけば、片方を破損しても、もう一方まで破棄するする必要がなく経済的だ。
・またタイツとスカート、長いスカートとニーソックスなど、より保温性を高める組み合わせもあるが、そうすると布同士の摩擦によって動きにくくなるデメリットがある。
 スカートとソックスの間を少しだけあけることは、デメリットを減らし、かつメリットのメリットの減少も抑えることができる、合理な解決策といえないだろうか。
・夏もまた紫外線の脅威から守るためにカバーが必要である。
 ソックスであれば気軽に取替え・洗濯でき、さらにニーソックスであれば覆う面積も広く効果が高い。
・足の形が露になること、もっと言えば大腿部を露出するということは、足を覆う伝統的な和装や、日本的な恥じらいの文化を否定するものとみる向きもあるかもしれない。
 しかし、東北ずんこタンのようなミニ和装も許容される現代日本においては、ミニ+ニーソは多様性のひとつとして位置づけることができ、伝統・文化の否定とはならない。

 加えて言うなら、ミケランジェロが追求した「肉体の美」を讃えるのと同様に、健康な若者の身体は賞賛の対象とされこそすれ、隠匿すべきものではない。


3.では、結論として言いたいことを述べる。

 

例)

・よって私は、ミニ+ニーソを公立の制服として採用するよう、署名運動を開始する。

・今後も弛まず倦まずニーソックスへの愛を追求していく。

・これらの理由から、既にニーソックスは一種の芸術として成立していることをここに宣言したい。

・女子学生は自ら進んでニーソックスを穿くべきである。

・あなたもニーソ崇拝を公言すべきではないだろうか。

・なんでもいいからニーソックスを穿いてほしい。それが私の願いです。

 

 

 ・・・

三行で言うと、以下を踏まえてほしいということだ。

  (a)ということがあった。

  (b)というように感じ/考えた。

  結論として(c)ということを言いたい。

 

ここまで来て、テーマにそのものに辿り着いていないという現実がある。

何かおかしい。

 

あなたの学校はどう?偏向教育されてますか?

追記)どうでも良くなって途中で放置していた文章をうpしてみた。

 

追記)同テーマで続きをうp。どれもタイトルが似てるが気にしない。